こちらの資料は指導案でご紹介したものの前段の内容です。授業自体はこの通りの内容ではありません。ただ、調べたものとして参考になるかと思い、ご紹介いたしました。ご興味がありましたらどうぞ御覧下さい。



「きまりがあるのは何のため?~きまりの意味を考えてみよう!~」

第1部 板橋駅の歴史(part1)と地元・小学校付近の移り変わり

 

平成25年2月19日

行政書士 山賀 良彦(やまが よしひこ)

 

 

〇、導入

1.テーマについて:きまりについての授業であること。

2.出前授業について:法律の専門家である行政書士に来てもらっていること。

3.今日のテーマの具体的内容について:板橋駅と地元付近の話についてであること。

今日はきまりについての授業を行います。

そこで、今日は、法律の専門家である行政書士に来てもらっています。

今日はきまりについて考えるんだけど、みんなが良く知っている板橋駅と小学校の地元付近の移り変わりを学んでから、きまりについて勉強します。

それでは、まずは、板橋駅の話から授業をはじめましょう。

 

 

一、展開1

板橋駅クイズ:板橋駅はどんな駅?

板橋駅は知っているね。それでは、板橋駅に関するクイズを出します。

●第1問:板橋駅は何区にあるでしょうか?

板橋区だと思う人?北区だと思う人?いや、それ以外の区かもと思う人?

 

答え:実は、板橋区、豊島区、北区の三つの区にまたがっているんです。

→地図で3つの区にまたがっていることの確認。

 →3区に跨っていることが分かる地図を用意。

  

  ●第1問派生問題:板橋駅はJR東日本の分類では板橋区にあることになっ

   います。それはなぜでしょうか?

答え:駅長室が板橋駅にあることから。

 

●第2問:板橋駅はいつごろ出来たでしょうか?

200年ぐらい前でお侍さんがまだいたころ? 

それとも、100年ぐらい前、お母さん、お父さんが生まれたころ。

→1885(明治18)年)で、今から127年前です。

 

●第2問派生問題:板橋駅ができたのは東京駅より古いでしょうか?

答え:古い。東京駅開設1914年。板橋駅1885年。なお、日本最初

   の鉄道(新橋~品川間)が、明治5(1872)年で、今年

   140周年。

 

■品川から赤羽をつないだのは、当時の官設鉄道(新橋~横浜間:と日本鉄道会社の上野~高崎(のち、前橋)間の高崎線をつなげることを計画してつくられたものだそうです。理由は、富岡製糸場からの生糸、絹などの輸送のためにといわれている。

 

●第3問:今の埼京線は昔、何と呼ばれていたでしょうか?

 新幹線?、中央線?、山手線?。 答え:山手線。

 

■板橋駅は、一時期は山手線の駅だった。

1885年開設当初:板橋駅は、品川から赤羽をつないだ路線(品川線と呼ばれる)の駅の一つ。開業当初の駅は、赤羽、板橋、新宿、渋谷、品川。その後、池袋~田端間の路線(この当時は豊島線といっていた。明治36(1903)年4月1日開業)が出来る。

 

この品川線と豊島線(上記図③と④の路線)の二つを合わせて山手線と呼んでいた。(※日本鉄道株式会社の株主総会で品川線・豊島線を併せて山手線と呼称することを決定している。)

 

なお、その後、田端の方に行く環状線側を山手線、板橋駅のある線(池袋~赤羽間)は赤羽線とよぶことにしたそうです(昭和47年)。

 

※埼京線は通称名。正式名称は、大崎駅から池袋駅までが山手(山手貨物線)、池袋駅から赤羽駅までが赤羽線、赤羽駅から大宮駅までが東北本線の支線(別線)。

 

なお、『JR時刻表』の埼京線の項目、新木場駅-大崎駅間は東京臨海高速鉄道りんかい線、大崎駅-池袋駅間は山手線、池袋-赤羽駅間は赤羽線、赤羽駅-大宮駅間は東北本線、大宮駅-越駅間は川越線。

 

 

二、鉄道とまちづくり

板橋に鉄道が通ること、板橋駅ができることについて。駅とまちの関係を考える。→◆駅、鉄道から滝野川6丁目、7丁目との関係を考えてもらう。

 

●質問4:板橋駅ができること、板橋付近に鉄道が通ることについて

     んな喜んでいたと思いますか?意見を出してみよう。

答え:当初、板橋駅付近を中山道に沿った形で鉄道を通す計画があ

   た。それに対して、地元の板橋宿の人たちが、大反対したとい

   われている。

※代表的な反対意見:

 『鉄道なんかできたら、板橋宿に泊まってない。』

 『板橋宿が寂れてしまう。』

 

■なお、当時の鉄道、駅に対する反対意見について

・政府側:鉄道にはお金がかかることからつくることに対して反対

 する人もいた。

・路線の予定地の人:立ち退きなどで土地を失われる等で反対。

・宿場町の人:鉄道や駅が出来ると、宿場に立ち寄ってくれなくな

 り、宿場が寂れる。』

なお、便利になるとしてお願いした場所もあるといわれている。

◆注:鉄道忌避についてはあまり根拠がないという説が現在では強い

 ことに留意する。

 

■結果として、その時には、中山道ルートは中止。鉄道は今の板橋駅付 近には敷設されなかった。

 →当時の技術では起伏が激しいところでの敷設が費用もかかり難しったといわれて

   いる。その時できた鉄道は、今の高崎線(京浜東北線)。駅は王子、赤羽。→板橋宿の人

  たちは一安心したといわれている。

 

■■顛末

 高崎線、王子、赤羽駅が出来たおかげで、多くの人が王子、赤羽を通る鉄道を利用するようになった。そのおかげで板橋宿を通る人が減ってしまった。

 そこで、品川から赤羽まで鉄道を通す計画があったときに、積極的に誘致したといわれている。「ぜひ板橋駅をつくって下さい。」とお願いしたといわれている。

  →板橋駅はまちの発展のためでもあったといえる。→のちの板橋駅の発展につながる。

 

 

三、地元小学校付近の移り変わりについて

1.地元小学校付近(板橋駅付近)のまち、人の移り変わりについて

●質問1:駅が出来て板橋駅付近、学校の近くはすぐ人が住むように

なったでしょうか?地図を見て考えよう!

◆板橋駅付近の地図を示す。

①迅速測図,明治時代、江戸時代付近の地図

→中山道沿い、現在の滝野川銀座商店街など滝野川6丁目付近が栄

 えていることが分かる地図。

②明治42年、大正14年の地図

→赤羽、王子付近の人が多いことが分かる地図

 

■人が増えてきたのは、赤羽や十条、王子。こちらは軍の施設があったり、紙工場があったりして人が増えた。赤羽、十条、王子付近が栄えていることが分かる地図を用意。

 

◆◆①,②の地図からは、板橋駅付近(谷端地区付近(滝野川7丁目))はそれほど人が増えなかったことを示唆。

 

◆◆◆江戸,明治、大正には街道沿いにたくさん建物があるらしいこ

と、鉄道が出来ても(1885(明治18)年)、板橋駅、小学校の

付近は建物があんまり増えていないことを確認。

 

2.その後のまち、人の移り変わりについて

質問2:①や②の地図のころと比べてどう変わったでしょうか?

③昭和22年区画整理前の地図

④昭和38年区画整理後の地図→gooの地図等。

◆区画整理が行われていること。地図では見づらいが人が多く住んでいること

 がわかる。

昭和20年4月13日に空襲があった。→板橋駅、谷端小学校等を

 含め谷端地区が被害に。

→戦争後、谷端地区は区画整理が行われる(谷端戦災復興区画整理

事業組合。石碑が南谷端公園に)。

→谷端地区は、区画整理後、多くの人が移り住んできたといわれ

る。昭和30年、40年代は北区の人口が40万人を超えるほどに

(谷端地区もその時期が最大とされている。現在北区人口は30万

人程度)。

 

3.まとめ:中山道、板橋駅が滝野川6丁目地区、滝野川7丁目(谷端地

 区)に与えた影響。


 板橋駅が出来ても最初はそれほど人が増えなかった。
 →中山道沿い(滝野川6丁目付近)が栄える。その後、軍や工場関係の近くに人 が増えてきた(赤羽、王子、十条付近。十条駅は軍のおかげで人が増えて出来たとも)。板橋駅付近は、戦後、区画整理、池袋、新宿まで一本で行くことが 出来るなどの利便性から人が移り住んできたと考えられる。

 →学校すぐ近くの商店街(滝野川市場通り商店街(飯田百貨店:昭和21年出店)。滝野川さくら通り商栄会(昭和27年)もそのころから盛んになってきたといえる。

 

●質問3:今日ここまでの話で、板橋駅は谷端地区にとってどんな駅だとおも

     いましたか?→交通とまちづくりの関係について考えてもらう。

 

 例:中山道が滝野川6丁目を豊かにし、板橋駅が滝野川7丁目(谷端地区)

   を豊かにしてきたといえる。

 

以上、「きまりがあるのは何のため?~きまりの意味を考えてみよう!~」第1部 板橋駅の歴史(part1)と地元小学校付近の移り変わり 終了。